2011年03月10日
15周年セール!
お弁当のさいじ 有田バイパス店が
お陰様でオープン 15周年を迎えることができました!!
そして皆様には感謝の気持ちで3月16日(水)午後3時より
「景品付大もち、菓子投げ大会」を行いたいと思います。
当日は ちょうど初午ということで各地域でも もち投げが
おこなわれますが、是非ご来場ください!
有田バイパス店 お客様駐車場にておこないます!
なお もち投げによるトラブルは責任を負いかねますので
ご了承ください。
実は 本店がお持ち帰りのお弁当店としてオープンしたのが、
今から29年前、 その7年前に日本に初めてコンビニエンスストアー
「セブンイレブン」が上陸、 その一年後 それまでできたての
あたたかいお弁当をすぐ販売するという習慣、お店がなかったのを
あの「ほっかほっか亭」田淵社長がやり始め瞬く間に全国に広がった。
そして当店もその当時地域でははじめてだったため開店の初日
300人以上のお客様が早くからご来店くださり、一時パニック
になったのを思い出します。
お陰様でオープン 15周年を迎えることができました!!
そして皆様には感謝の気持ちで3月16日(水)午後3時より
「景品付大もち、菓子投げ大会」を行いたいと思います。
当日は ちょうど初午ということで各地域でも もち投げが
おこなわれますが、是非ご来場ください!
有田バイパス店 お客様駐車場にておこないます!
なお もち投げによるトラブルは責任を負いかねますので
ご了承ください。
実は 本店がお持ち帰りのお弁当店としてオープンしたのが、
今から29年前、 その7年前に日本に初めてコンビニエンスストアー
「セブンイレブン」が上陸、 その一年後 それまでできたての
あたたかいお弁当をすぐ販売するという習慣、お店がなかったのを
あの「ほっかほっか亭」田淵社長がやり始め瞬く間に全国に広がった。
そして当店もその当時地域でははじめてだったため開店の初日
300人以上のお客様が早くからご来店くださり、一時パニック
になったのを思い出します。
追記 昨日尾藤箕島高校野球部元監督の葬儀がおこなわれた。
やはり箕島人として書いておかなければならない。
私が箕島小学校で少年野球チームに入っていた頃(その当時は
今のようなキチンとしたリトルリーグはなく地元新聞社が主催して
いたチームでユニホームはなくシャツにトレパン姿で野球をした)
東尾修、島本耕平氏が箕島高校で練習しているのをグラウンド
まで見に行ったものです。
高校進学は残念ながら、野球の才能は優れてなく又、尾藤監督の
勧誘もなく(箕島中野球部は弱かった為全員勧誘はなく内一人だけ
箕島高校野球部に進むことに)
耐久高校野球部に入り、2年の時箕高と対戦した。その時は捕手と
して箕高打線の破壊力を目の前で知ることになる。
その夏甲子園に出場した 箕高3年部員の打力はすさましく、その
中でもあの島本講平氏の弟啓次郎氏には目の前で耐久、中投手の変則
スローカーブを糸も簡単に大ホームランをし、「こいつはオズマか
」と思ったものだ。
その箕島に勝つことが夢だったが、3年の時尾藤箕島監督が突然やめて
しまわれた。後に甲子園一回戦で負けたからとか信任投票とか親父さんが
なくなったからとか言われているが、真意は直接聞いていないので
わからないが、荒川監督に代わり ちょっと闘志がなえていたが、春の
近畿大会予選で対戦する。そして見事に 箕高に勝利することとなる。
その勢いで近畿大会出場、近畿準優勝を成し遂げた。
あの時箕高が尾藤監督なら勝てていただろうかと今でも思う。
又、79年春夏連覇星陵戦は 、私の妹が、石井、嶋田の同級で箕島
高校吹奏楽部だった為、甲子園全試合応援に行っており、テレビでは
私も手に汗握っていたものです。
尾藤監督とは残念ながらすれ違いが多く昔、一度お会いした時どうな
がんばっとるかと言われたぐらいです。
ご冥福をお祈りいたします。
やはり箕島人として書いておかなければならない。
私が箕島小学校で少年野球チームに入っていた頃(その当時は
今のようなキチンとしたリトルリーグはなく地元新聞社が主催して
いたチームでユニホームはなくシャツにトレパン姿で野球をした)
東尾修、島本耕平氏が箕島高校で練習しているのをグラウンド
まで見に行ったものです。
高校進学は残念ながら、野球の才能は優れてなく又、尾藤監督の
勧誘もなく(箕島中野球部は弱かった為全員勧誘はなく内一人だけ
箕島高校野球部に進むことに)
耐久高校野球部に入り、2年の時箕高と対戦した。その時は捕手と
して箕高打線の破壊力を目の前で知ることになる。
その夏甲子園に出場した 箕高3年部員の打力はすさましく、その
中でもあの島本講平氏の弟啓次郎氏には目の前で耐久、中投手の変則
スローカーブを糸も簡単に大ホームランをし、「こいつはオズマか
」と思ったものだ。
その箕島に勝つことが夢だったが、3年の時尾藤箕島監督が突然やめて
しまわれた。後に甲子園一回戦で負けたからとか信任投票とか親父さんが
なくなったからとか言われているが、真意は直接聞いていないので
わからないが、荒川監督に代わり ちょっと闘志がなえていたが、春の
近畿大会予選で対戦する。そして見事に 箕高に勝利することとなる。
その勢いで近畿大会出場、近畿準優勝を成し遂げた。
あの時箕高が尾藤監督なら勝てていただろうかと今でも思う。
又、79年春夏連覇星陵戦は 、私の妹が、石井、嶋田の同級で箕島
高校吹奏楽部だった為、甲子園全試合応援に行っており、テレビでは
私も手に汗握っていたものです。
尾藤監督とは残念ながらすれ違いが多く昔、一度お会いした時どうな
がんばっとるかと言われたぐらいです。
ご冥福をお祈りいたします。
Posted by ジースリー at 10:59│Comments(0)
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